谷口貴子

先月号にも記事を書いて下さった谷口貴子さんは、フランス在住で二児の母としてもがんばっています。ブログにその日常を綴っており、一部を紹介します。

ルルヤヤ 2009年03月 ルルヤヤ 2009年02月
1. 生まれた時 都築房子

 私は昭和24年(1949年)1月に高知市の下知地区に生まれました。校区は昭和小学校ですが、当時の住所名は中新町といって今の桜井町です。これからしばらく私の子供時代のお話をしていこうと思います。
 私が生まれた頃は、世界大戦が終わったばかりで、多くの男の人が戦争から帰ってきて結婚し、赤ちゃんが次々と生まれた、いわゆるベビーブームの時代です。小学校に入学した時は1クラス50名位で1学年10クラスもありました。
 私の家族はおじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、おじさん(父の弟)、おばさん(その妻)と私の7人で、大家族の中で育ちました。(後に、おじさん夫婦は独立して、私の妹が生まれ、6人になりました。)
 この頃は、戦争が終わったばかりで、高知市もまだ空襲の焼け跡がぼつぼつあって、住める家が少なかったようです。私の家は借家でしたが中庭をはさんで母屋と離れがあり、裏庭には井戸と鶏小屋がある割合広い家でした。お風呂とトイレは別棟です。この家に私が生まれるずっと前から皆住んでいたようです。家のすぐ横に幅1m位の水路があり、今のように上下水道が完備していなかった当時は家庭排水をそのまま流していて臭い匂いがしました。しかし、ここは近くのお百姓さんが小舟に乗って下肥えを集めにくる通り路としても使われていました。(当時、下肥えは農家の大切な肥料で、野菜と交換したりしていました。)
 このような生活の中で私はお産婆さん(助産婦)によって、自宅で産声をあげました。