井関さおり

11月20日、現代美術の国際展「横浜トリエンナーレ」に行ってきました。会場は横浜港山下ふ頭の巨大倉庫。
展覧会のメインイメージとなるポスターになっていた作品が地味だったことと、プロデューサーが途中で変わってしまったということで、初めは展覧会を楽しめるかどうか少し不安でした。でも実際に行ってみると思いのほか楽しく、美術館とは全く違った空気の中で味わう現代美術を新鮮に感じました。出品作家にはアジア人が多く、大げさでないローカルな視点からの作品がたくさん見受けられました。それに加え展示会場の「倉庫そのもの」の雰囲気やワークショップ形式の作品の多さに、巨大で迫力のある作品の多かった前回(残念ながら雑誌で見ただけで私は行っていませんが)に比べると、ある意味安っぽい展覧会と言えるかもしれません。しかし私は、今実際に地方で細々とではありますが作品制作をする身として、大資本と結びつかずにアーティストにできることを数多く見せてくれたこの展覧会をとても面白いと思いました。自分 対 作品でなく、自分と作品がそこに共にあるという空気も楽しさの一因でした。
ガツンとくる強烈な作品が少なかったのは残念ですが、美術展は高尚で難解で敷居が高い、と敬遠する人にも是非見てもらいたい、いい意味でローテクで地続きな作品群でした。次回はたぶん2008年でしょうか。今度はどんな展示になるのか、横浜観光も兼ねて皆さんにお勧めしたいです。中華街での食事がおいしかったですよ〜。
−私たちのなかの子どもへ− (25) 久保慧栞

アンネ・フランクが生きていれば
『アンネの日記』
(著者:アンネ・フランク / 訳:深町真理子 / 出版社:文春文庫)
『床下の小人たち』(著者:メアリー・ノートン / 訳:林 容吉 / 出版社:岩波少年文庫)
『アナベル・ドールの冒険』(著者:アン・M・マーティン、ローラ・ゴドウィン /
             絵:ブライアン・セルズニック / 訳:三原 泉 / 出版社:偕成社)

 第二次大戦末期、『アンネの日記』を残し、ナチスの収容所で亡くなった少女、アンネ・フランク(1929-1945)。アムステルダムの隠れ家での窮屈な生活の果てに、家族ともども収容所に連行されました。作家になるのが夢だったというアンネは、本とバラに姿を変えて世界中に平和を訴えつづけています。
  児童書を読んでいると、そんなアンネをほうふつとさせる出会いがあります。小さな人たちの暮らしを描いた古典シリーズ『床下の小人たち』。人間に見つからないよう床下に隠れ住んでいる「借り暮らし」の小人たちが、ふと、アンネの一家にかさなってきます。ここにも好奇心旺盛で本を読んだり日記を書いたりするのが好きな少女、アリエッティがいるのです。
  そして、『床下の小人たち』への愛着が感じられる最近の作品『アナベル・ドール』のシリーズ。ここにもまた、人間には「物」として見えるよう、苦労しながら生きている、本好きのアナベルという人形の少女がいます。アンネ、アリエッティ、アナベル。みなイニシャルがAなのは興味深い一致です。
  自分が指先ほどの小さな存在になって、ティーカップのそばに座っていたり、階段をよじのぼったりする様子を想像するのは楽しいですが、アリエッティやアナベルにとっては危険をともなう現実の世界です。アリエッティは人間に見つかったら住みなれた家を出て行かねばなりませんし、アナベルは場合によって「永久お人形状態」となり、死んでしまいます。
  アンネにとっては言うまでもなく、見つかれば収容所行きを意味します。しかしアンネの場合は、同じ人間の手で死の宣告がなされたことは、アリエッティやアナベルには想像もつかないことでしょう。児童書の著者たちはアンネを想い、彼女たちに「生き延びた」アンネの姿を託したのかもしれません。

ラーラ

 高知市出身の野田正彰氏による講演会『教育があぶない!ー子どもの問題、親の課題ー』がありました。土佐中・高の教職員組合主催でした。
 もともとは精神科医の野田氏は、日本の現代社会のかかえる問題の根っこを、文化的側面、あるいは精神病理学的側面から、鋭く分析。氏のコラムが高知新聞に掲載されるたびに、「そうだ、そうだ」と私はうなずいています。
 いまの子どもは、「少子化」と「情報化」という2つの問題をかかえています。
 「少子化」により、母子密着度が高まり、また、もつれ合って育つ兄弟関係が稀薄となる。 親は「友だちとは仲良く」、しかも「負けたらダメ」と、矛盾したことを言う。その結果、子どもは本当の感情を表現することなく、表面上の仲良しを続けられるよう我慢に我慢を重ねる。摩擦を避けているから、想像上の友だちをつくる。関係性が乏しいから、朝シャンや手洗いなど自分を縛る儀式をつくる。いい子を装う現実世界と、自己中心的なファンタジーの世界が、部分的に重なり合う精神構造を形成した。そして、我慢が限界にきたらキレてもいいんだ、となった。
 さらに、子どもたちから曖昧な時間が奪われて外で遊ばなくなり、自分のスケジュールで動くようになったとき、細切れの時間にゲームやファミコンなど日本的「情報化」がしのびこんだ。本来「情報化」は開かれた社会をつくるが、日本の場合、自分に閉じこもる、孤立した「情報化」が進んだ。
 競争社会が不安を増幅するから、親にできることは人間関係をゆたかにする社会をめざすこと。とりあえず、操作的にならずに考えていること、意見を言い、「あなたはどう思うか?」と対話をすること。子どもが社会に対して考えること、「〜したい」と思うことを尊重し、子どもの成長を心から喜ぶこと。決めつけ、おしつけないこと。自立した人格として認めること。
 参考文献:『この社会の歪みについて』『なぜ怒らないのか』ほか多数