5. 小さな工場 都築房子

 私の住んでいた辺りは、小さな家内工業が盛んで同級生の家もいろいろな家業を営んでいました。友達の家に遊びに行くと、その家の両親や職人さんたちがいつも忙しそうに働いていて、その様子を見るのは楽しみでした。
 家のすぐ前はせんべい屋さんで、おじいさんとおばあさんの2人で朝早くから手際よくせんべいを焼いていました。その少し先では、飴屋さんが見事な手さばきでまるで工芸品のような飴を作っていました。格子の窓からのぞいて見ていると、たまに職人さんが飴の切れ端を子どもたちにくれることもありました。また同級生の家は麩屋で、遊びに行くといつも酸っぱいような独特の匂いがしていましたし、同じ町内にあんこ屋、豆屋、甘納豆屋、蜜柑水屋、昆布屋など多種多様な食品製造業がありました。それらは、子どもの目から見たらどれも驚異的な技のオンパレードで1日中見ていても飽きないほどでした。
 私が小学生の頃はまだ今のようなアイスはなく、かき氷を木型に詰めて押し固め割り箸を刺したものがありましたが、それは赤や黄色の甘い蜜をかけるとすぐに崩れそうになり落とさずに食べるのはとても難しい代物でした。その後、色着きの砂糖水を型に入れて凍らせたアイスケーキが売り出され製造直売していましたが、やがて駄菓子屋の店頭でも全国販売のメーカー品が出回り始めると姿を消してしまいました。
 小さな家内工業から大量生産へと社会の仕組みが変わっていく途中でしたが、子どもの頃にものづくりの現場を見ることができたのは、今でも幸せだったと思っています。

(16) インクレディブル!インディア
 1. デリー
チュンズ

 4月に息抜きのためツアーで訪れたインドという国に魅せられ、帰国後すぐに6月の航空チケットを購入した。どうして今まで私はこの国に来なかったのだろう? そして何故こんな気持ちでこの国と向き合うことになったのだろう?
 インドは他の国とは違う。滞在中はまるで予測不可能な劇の舞台に引っ張り上げられるような感覚。しかもそれがエキストラとしてではなく主役級の登場人物として扱われ、様々な人間が織り成す混沌の中、徒労、怒り、驚き、喜び、落胆、感謝、etc…せざるを得なくなる事件が巻き起こること間違いないのだ。
 買い付け出発までに一月ほどあった準備期間中は、北インドの公用語ヒンディーや歴史やカースト制度について少し勉強したりした。インドで実際に起きた外国人を狙った詐欺や被害についてもネットで検索して片っ端から目を通した。それは、立ち向かう対象の表も裏も知識として持っておきたかったことと、ぬくぬくと育った日本人の私が小手先で通用する相手ではないとわかっていたからだった。
 6月13日(土) 高速バスで大阪へ向かい、なんばで乗り換えて関空へ到着。いつものように出国審査場を抜けて14:00発のAI315に搭乗した。
 4月に申請したマルチプルビザがまだ有効期限内なので、今回はビザ代がお得だった。15時過ぎに機内食が出て、18:00に給油のため香港へ着陸。
 日本帰りの香港人たちが降り、換わりに香港帰りのインド人たちが乗ってきた。あと5時間半でデリーに到着する。と、ここで私の隣の席に座ったインド人男性。しばらく様子を伺っていたが、英語で話しかけてきた。名前はnitin君、26歳。彼は最初のうち私の英語力のなさをバカにしていたけれど、インドのアレンジメンテドマリッジについてどう思うか、とか、ソフトを売る会社で仕事しているんだけど、香港人の年上女性ジョセフィーヌからよくご飯に誘われるんだ、という話を聞いてあげたりしているうちに、最終的には何故か気に入られ、「デリーで降りずにムンバイの僕の家に遊びに来なよ」という話になった。いやいや、あなたはなかなかのハンサムボーイだけれど、気をつかって相手をしてたから私は疲れたよ。笑
 インディラ・ガンディ空港の恐ろしく鈍いイミグレでは、40代の日本人女性が一人旅に来ていて、新型インフル対策用であろうヘルスチェックの用紙の書き方がわからず悪戦苦闘していた。私の英語能力も人のことを言えたものではないが、彼女もたいがいヒドイ部類だった。
 ターンテーブルから自分の荷物を取り、空港内のエクスチェンジで円をルピーに両替。国際線到着口まで迎えに来てもらっているガイドさんと落ち合い、高速道路をデリー市内へと走った。時差でちょっと思考がフワついていたものの、ホテルに着き、シャワーを浴びて眠りに着いた。
 6月14日(日) 緊張しているのか、3:00に目が覚めた。そのままの状態で5:00くらいまでゴロゴロし、ついに起きて洗面所で洗濯を始めた。
 朝ごはんは確か7:00〜9:00と言っていたような…。何となくまだあまり外に出たくなくて部屋で迷っていたら、9時ちょっと前にフロントから電話があり、食事を促された。もう朝の部が終わりかけで誰もいない地下の食堂にはバイキング形式の朝食が用意されていて、その中から大きなサモサひとつと、薄いオムレツを選び、席に着いた。係のおじさんが熱いチャイを淹れて持ってきてくれて、私に英語で「どこから来たのか」問う。ヒンディーで「マェン ジャーパーンー セ アーイー フン(日本から来ました)」と言うと、とても喜んでくれて、握手を求められた。ささやかだけれども、コミュニケーションがとれてホッとした。部屋に戻るとフロントから電話があり、「朝ごはんは済んだか? あなたのガイドはいつ来るのか?」と訊かれた。お客さんに対する親切なんだろうと思う。「ブレクファスト、フィニッシュ。10オクロック。」と答えるのが精一杯。私はまだ積極的に自分を主張できずにいる。
 立派な店構えのエンポリウムにて、木彫り製品や、ファブリック、家具などを見て値段の相場を知る。ガイドさんと併設のカフェで一休み。アイスふたつとポテトを注文。150ルピー。
 その後少し離れた庶民の市場へ向かい、雑貨を少し仕入れ。私のジーンズのポケットから出ていた100ルピー札を見た通りがかりのおじさんが、「お金が出てるよ!」と注意してくれた。いい人だ。適当な態度のサンダル屋の兄ちゃんもいれば、韓国が大好きな金物屋の店主もいた。
 途中、インドのベジ天ぷら「パコーラー」を食べたいと言ったら、運転手さんが美味しいところを知っていると言って、テイクアウトのパコーラー屋さんに連れて行ってくれた。車の中で広げて、インドコーラを飲みながら3人で、カリフラワー、チーズ、ほうれん草などのパコーラーを食べた。めちゃくちゃ美味しかった。
 明朝は5:15にホテルを出てニューデリー駅に向かう…ということは4:00起きである。(続く)